「翔ぶが如く」を再読して考える

どうも読後も西郷隆盛の不可思議さが頭を離れない。
明治維新前後における西郷の華々しい活躍(表に裏に)に比べて、その後西南戦争で自決するまでの動きがどうも対照的であり陰鬱に感じるのはどうしてだろう、歴史の必然といえばそれまでだが。
それを解釈するのに文庫版第八巻P13-15あたりに興味深いエピソードが挿入されている。

「維新前の南洲翁と維新後の南洲翁は別人のような感じがする。」という印象が、鹿児島に残っている。

これを受けて

(略)こういう西郷について、鹿児島では、病理的な原因があるのではないか、という解釈が、きわめて密かではあるが、囁かれてきている。

明治二年のことである。
同年、かれは新政府がするとほどなく鹿児島に帰り、征韓論決裂後のように、やはり狩猟に日をすごした。
事故がおこったのは、大隅の小根占であったらしい。(略)ある日、山を歩くうちに足をすべらせて転倒し、木の切株のかどで頭をつよく打った。

以後伝承を記憶していた方の手紙を引用し

木の切株の角で頭を強打し、人手を借りて山を降って、平瀬回漕店の離れ座敷で静かに寝て養生したことは、後年、平瀬平七がよく人に語っております。(略)
南洲翁に日常よく接触していた前記熊吉をはじめ多くの人が語り残した話によりますと、それ以来、天気の悪い日は頭が重いことを訴え、顔の表情もきびしく、機嫌が悪く、ちょっとしたことに大声を出して叱ることがあったそうでございます。
それと、たれの目にもあきらかであったことは、以前にくらべ、根気がなくなったそうでございます。しかし天気の好い日は従前と変わりなく頭が冴えていて、勘が鋭かったそうでございます。(略)

どうであろう。これはあくまで一エピソードであるかもしれないが、歴史を考えるにはこういった当時の一個人の精神性も出来るだけ加味しながら思い巡らせないといけないように思えてならない。歴史には確かにそこに生きる個人がいて、どんな人でもそれを包み込むような時代という雰囲気が確実にあり、個人を否応なく翻弄していくものだから。
それをふまえて、西南戦争勃発の一端として司馬氏の次の一節には頷かされる。

いまとなれば、西郷の行動を病理的に解釈づけることは不可能だが、すくなくとも西南戦争おける西郷の行動の巨細をもっと西郷像を決めるとすれば、幕末において西郷があれほどの活動をした革命家であったということのほうが、うそになる。あるいは、桐野らは西郷の知能に期待せず、西郷の知能よりも、西郷の世間における圧倒的な名声のほうを--意識的に--担ぎあげたのではないか。

新装版 翔ぶが如く (8) (文春文庫)

新装版 翔ぶが如く (8) (文春文庫)